丁度、その頃――「そう言えばね……昨夜、琢磨から連絡がきたのよ。朱莉さん、具合が悪かったんですって?」朝食の席で明日香は翔に尋ねた。「え? 琢磨から電話があったのか? いつ?」「貴方がシャワーを浴びていた時よ。琢磨からだったから私が出たの」「あ、ああ……。そうだったのか。それで琢磨は何て言ってた?」「ええ。昨夜の話では、朱莉さんが個人的に頼んだガイド兼通訳の人が朝朱莉さんを見舞ってあげたらしいわ。フルーツを差し入れしてあげたら喜んでいたって。そのガイドの女性が帰る頃には大分具合が良くなっていたそうよ。良かったじゃない。親切なガイド女性に巡り合えてね」ツンとした様子で明日香はそれだけを話すとミネラルウォーターを飲み干した。他にも色々琢磨には朱莉の事で責められたが、思い出したくも無かったので明日香は黙ることに決めたのだ。「……」一方の翔は明日香の話を聞いてから難しそうな顔で黙り込んでいる。その様子を見て明日香は眉を顰める。(まさか、朱莉さんのことを考えているのかしら? だとしたら許せないわ。私が目の前にいるのに他の女のことを考えるなんて)「ねえ、翔。何を考えているの? ひょっとして朱莉さんのことなんじゃないの?」念の為に明日香は尋ねてみたが、翔の答えは明日香の思っていた通りの答えであった。「あ、ああ。朱莉さん、今朝はもう体調良くなったかなと思って。ごめん、明日香の前でこんな話して。忘れてくれ」謝られても明日香は翔が朱莉のことを考えていたと言われるだけで、どうしようもない嫉妬にかられてしまう。そこである考えが浮かんだ。朱莉に嫌がらせをする最高の考えが……。(そうよ、翔がいけないのよ。私はちっとも悪くない……)「ねえ、翔。朱莉さんの具合が気になるなら連絡入れてみなさいよ」明日香の急な提案に翔は目を見開いた。「え……? い、いいのか?」「いいに決まってるじゃない。だって高熱を出したんでしょう? 今の体調が気になるのは私も一緒よ。それで、もし朱莉さんの具合が良いなら3人で一緒に出掛けましょうよ。おじいさまにモルディブに行ってきたことを証明するためにも写真があった方がいいでしょう?」「確かにそうだな。ありがとう、明日香」翔は嬉しそうに笑った。明日香のその裏に隠された本心を知ることもなく――****バルコニーで海を眺めていた朱莉の元
「おはようございます。翔さん、明日香さん。本日はお誘い頂き、ありがとうございます」朱莉は翔と明日香が滞在しているホテルのラウンジで、既に到着していた2人に丁寧に頭を下げて挨拶をした。2人が宿泊しているホテルは本館というだけあって、朱莉が宿泊しているホテルとは雲泥の差があった。(すごい……本館と別館というだけで、ここまで違いがあるなんて。それにしてもなんて凄いホテルなんだろう)朱莉はそのホテルのあまりにも豪奢な造りに目を見張っていた。朱莉の今日の服装は大きなアジサイの花柄のノースリーブの膝下のワンピースに薄手のカーディガンを羽織った服装である。一応、モルディブではどのような服装をしているのか、ネットで検索して吟味して買った服であった。一方の明日香は真っ赤なノースリーブのロング丈のフレアーワンピースにミュール、頭には大きなサングラスを乗せている。そして翔はTシャツに短パンといったラフなスタイルをしていた。(うわあ……。いつもスーツ姿しか見ていなかったから、こんな姿の翔先輩を見る事が出来るなんて。恰好いい……)朱莉は一瞬顔が緩み、頬が赤くなりそうになったがこの2人の前では絶対にそんな姿を見せる訳にはいかない。必死で平常心を保った。「おはよう朱莉さん。身体の調子はもう治ったのね? 良かったわ。それにそのワンピース、すごく素敵じゃない。ね? 翔」明日香はソファに座りながら、さり気なく翔の腕に触れる。「おはよう。朱莉さん、うん。その服装、とてもよく似合っているよ」翔は笑顔で答える。朱莉はその言葉に頬が熱くなりそうだったが、その気持ちを押さえる。「ありがとうございます。明日香さんも翔さんも素敵です」「あら、ありがとう? さて、それじゃそろそろ行かない? 翔」「ああ、それじゃ行こうか?」翔と明日香が立ち上ったので、朱莉は尋ねた。「あ、あの……行くって……今日はどちらへ行くのでしょうか?」すると明日香が答えた。「フフフ……驚くわよ。今日はね、プライベートで水上飛行機を手配しておいたのよ。それに乗ってモルディブの島めぐりをするんだから。空から見る島の景色は最高なのよ?」「ああ、明日香が手配してくれたんだ。それじゃまずはヴェラナ国際空港へ行こうか?」翔が朱莉に声をかけた。「あの……私、何も特に荷物とか持って来ていないんですけど……大丈夫でしょう
高校を半年も経たないうちに退学せざるを得なかった朱莉は、はっきり言えば学力に欠けていた。中退してからはずっと働き詰めで勉強等する時間もお金の余裕すら無かった。今、通信教育で高校卒業資格を手に入れる為に一生懸命勉強をしてはいるが、それでも英語力だって中卒程度のレベルしか無い。一方、あの2人は素晴らしい学力も備え、聞いた話によると明日香も翔も英語だけでなく、フランス語と中国語も堪能らしい。 そう、翔と明日香に恥をかかせない為にも……自分は常にあの2人からは距離を置いておいた方が良いのだ…。朱莉はそう感じていた。 やがてパイロットとの話が終わったのか、明日香が朱莉の方を向いて手招きをしてきたので、2人の元へ向かった。「どうして、あんな離れたところで待っていたんだ?」翔が朱莉に尋ねてきた。「はい……。私は英語が話せませんのでパイロットの方に何か話しかけられても答える事が出来ないので、離れた場所に立っていました」「何だ。それ位の事別に気にする事じゃないのに。質問されたら俺が通訳を……」翔がそこまで言いかけた時、明日香がその上から言葉を重ねてきた。「ええ、そうね。朱莉さん。高校の通信教育も大事だけど、一応書類上とはいえ、鳴海家の家族になった以上、最低でも英語くらいは話せるようにならないと。努力を怠っている人間に見られるわよ?」「は、はい……すみません……」顔を赤くして明日香に謝る朱莉を見て、さすがに翔はまずいと思った。「お、おい……明日香。今の言い方は幾らなんでも……」「何よ? 翔だって、今後夫婦で呼ばれるパーティーとかにいずれは出席しなければならなくなる時がくるのよ? 海外の取引先の家族とだって会う機会があるでしょう? 仮にも鳴海グループの副社長の妻が英語も話せないとしられると、恥をかくのは翔、貴方なのよ? 私は……2人の為に言ってるのに……」明日香が涙目になってくるのを見て、朱莉は焦った。「す、すみません! 全ては私の勉強不足がいけなかったんです! 日本に帰国したら英会話の勉強も頑張ります。明日香さんのお陰で自分の今の立場が良く理解する事が出来ました。ありがとうございます」朱莉が丁寧に頭を下げるのを見て、翔は少しだけ胸が痛んだ。(俺が余計な事を言ったばかりに……。もう本当にこれ以上朱莉さんを構うのはやめておこう。そうしないと明日香の朱
明日香の企画した島めぐりツアーはそれは素晴らしいものであった。手配した水上飛行機はVIP用に内部を改造されたもので、座席は広々とした皮張りののソファにテーブルセットが置かれている。ソファはベッドにする事も可能となっている。TVやWi-Fi設備も整い、機内に置いてある冷蔵庫には十数種類のアルコールまで置かれていた。「今から私たちはバア環礁の島に行くのよ。そこでシュノーケリングをする予定だから、アルコールはやめておいた方がいいわね」明日香が翔に話しかけているのを隣の席で聞いていた朱莉が尋ねた。「あの……今日はシュノーケリングをする予定だったのですか?」「ええ、当然じゃない。モルディブまで来てシュノーケリングをやらないなんて話にならないわ」実は2人には内緒にしていたのだが、まだ朱莉は体調が万全とは言えない状態であったのだ。微熱も少しあるし、ましてやシュノーケリング等やった事もないのに、今の自分の身体では出来るはずもない。「あ、あの……。私は病み上がりですので、シュノーケリングはどうぞお2人で行ってきて下さい」「あら、そうなの? だってさっき電話ではすっかり良くなったと言っていたじゃないの?」不機嫌そうな顔で明日香が言うが、しかし、そこを素早く翔は止めた。「まあ、いいじゃないか。考えても見ろ。昨日まで熱があったんだ。しかもなれない海外だし……無理してまた熱がぶり返したら大変だろう? 朱莉さんの言葉に甘えて2人でシュノーケリングをしよう。……悪いね、朱莉さん」翔はチラリと朱莉を見る。「いいえ。私の事はお構いなく。潜らなくても綺麗な海を見れるのですから、私はそれだけで十分ですから」「そうね。それじゃ貴女は陸で留守番していてちょうだい。そうだわ! 島に降りたらまず記念写真を取らなくちゃね。おじいさまにちゃんとモルディブへ行ったことを証明する写真が必要だから」 **** それから約40分かけて、水上飛行機は バア環礁の島に着水した。「うわー、やっぱり素敵な場所ね。青い海に白い砂浜……」飛行機から降り立つとすぐに明日香は感嘆の声を上げた。「ああ、本当に美しい場所だな」翔は明日香の肩を抱き、愛おし気に見つめている。そんな2人の仲良さげな姿を見る度に、朱莉の胸は何かに刺されるかのようにズキリと痛んだ。翔が明日香に向けるあの視線は、一生自分が得る
「お、おい! 明日香! 一体、なんて写真を朱莉さんに取らせるんだよ!」翔は顔を真っ赤にして明日香に抗議した。「あら。別にそれくらい、いいじゃないの。仲の良いカップル同士ならキスしてる写真の1枚や2枚どうって事無いのよ?」「そんな事言うけどな……朱莉さんにあんな写真撮らせるなんて……」そこで朱莉は慌てて首を振った。「あ、あの! 私のことなら気にしないで下さい! た、確かに多少は驚きましたが……そ、その……素敵な写真を撮る事が出来ました……」最後の方では朱莉の声が消え入りそうになっていた。これを明日香と翔は朱莉の照れからきているのだとばかり思っていたのだが、それは大きな間違いであった――「それじゃ、翔。行きましょうか?」ヤシの実をデザインしたビキニの水着姿になった明日香が同じく水着姿の翔に声をかけた。「ああ、分かったよ」「それじゃ、朱莉さん。2時間位楽しんで来るから、貴女は何処かで時間を潰して置いてちょうだい」「はい、分かりました」朱莉が返事をすると、翔はそれじゃよろしくと簡単に朱莉に告げただけで振り向く事もせず、2人で海へと向かって行った。2人の背中を見送り、やがて見えなくなると朱莉は溜息をついた。「まさか……あんな写真を撮ることになるなんて……」朱莉は桟橋に座り込むと膝を抱えて美しい景色を眺めた。なのに。思い浮かぶのは先ほどの翔と明日香のキスシーンの映像ばかりだ。そして気付けば朱莉の目には涙が浮かんでいた。(馬鹿だな……私。明日香さんと翔先輩が恋人同士なのは知ってるのに……2人がキスしているのを見せられただけで……こんなにショックを受けるなんて……私……それだけ翔先輩の事が好きだったんだ……)朱莉は抱えた膝の上に自分の頭を埋めた。だが、朱莉が傷ついていたのはそれだけでは無い。ホテルを出た頃から翔が何となく以前より冷たい態度を取るようになったのも朱莉の心を傷つけるには十分だった。 翔は明日香の風当たりが朱莉に強く向けられるのを防ぐ為にわざと素っ気ない態度を取るように決めたのだが、そんな翔の考えが朱莉に伝わるはずもなく、ますます朱莉の心は傷付いていく。ぼんやりと海を眺めていたが、やがて朱莉は立ち上がった。(こんなに綺麗な場所なんだもの。もう二度と来れないだろうから、ちゃんと目に焼き付けておかないとね) 朱莉はスマホを取り出すと、
朱莉が再び先程の場所へ戻っても、未だに明日香たちが戻ってくる気配は無い。(この先どうしようかな……)この島は飛行機の上から見た島々の中では比較的大きい島の様で、ビーチ沿いには水上ヴィラが立ち並んでいる。(海の上に立っているなんて素敵なホテルだな……。もし、この契約結婚が終わって、お母さんも丈夫な身体になれていたら一度二人で泊まってみたい)そんな事を考えていると、ようやく明日香と翔が帰って来た。明日香はかなりハイテンションになっており、大きな声で騒ぎながら翔の腕にしっかり絡め、こちらへ向かって歩いてくる。「お待たせ、朱莉さん」「お帰りなさい、お2人供。どうでしたか? シュノーケリング楽しめましたか?」「ああ。そうだな」翔は相変わらず朱莉と目を合わそうとせずに素っ気なく返事をする。その様子を何故か明日香は満足そうに見て、口元に薄っすらと笑みを浮かべると朱莉に向き直った。「シュノーケリング、最高だったわ。海は綺麗だし、魚の群れは可愛かったしね~。朱莉さんも一緒にやれば良かったのに。ね、翔もそう思わない?」明日香は翔にしなだれかかる。「あ、ああ……。でもやるかやらないかは本人の自由だから、俺達がどうこう言うべき事では無いと思うけどな」翔は朱莉の方を見向きもしない。(翔先輩……)朱莉は悲しい気持ちを押し殺し、笑顔で言った。「私はこの素敵な景色を見れただけで充分楽しめましたから。それに、あそこに立ち並んでいる水上ヴィラもとても素敵ですね。外側から少しだけ見たんですけど、海の上にホテルが建っているなんて驚きました」「あら、そうなの? 知らなかったのかしら? まあ貴女じゃ、無理ないわね。そうね……空き部屋があれば泊まれない事も無いんだけど。でも難しいわね、きっとこの時期は」明日香は肩をすくませる。「……それなら食事だけでもこのヴィラのレストランで食べて行こう」翔が明日香を見つめた。「あ! そうね。それがいいわ。ついでにシャワールーム借りられないかしら~」明日香がチラリと翔の方を見た。「よし、分かった。それも合わせて聞いて来るよ」翔がヴィラの方へ向かって歩いて行くと、明日香が尋ねてきた。「ねえ? 朱莉さん……。貴女、ひょっとして何か翔を怒らせる事したのかしら?」「え!?」突然不意を突かれた質問に驚く朱莉。「い、いえ……。私は別
明日香と翔がホテルのシャワールームを借りて出て来るのを朱莉はホテルのラウンジでおとなしく待っていた。このホテルは水上ヴィラだけあって、訪れている客は全てカップルだらけである。(他の人達から見たら私達って完全におかしな組み合わせって思われてしまうんだろうな…)朱莉は心の中で小さなため息をついた。何気なくスマホを手に取ったその時、メッセージが入っていることに気が付いた。開いて見ると2件メッセージが入っており、1件はエミ、そしてもう1件は琢磨からであった。(え……? 九条さんから? どうしたんだろう? 何かあったのかな?)わざわざ琢磨から、メッセージが入るとは……。何か急ぎの用事なのかもしれない。そこで先に琢磨のメッセージから読むことにした。『こんにちは、朱莉さん。御加減はいかがでしょうか? こちらから紹介させていただきました現地ガイドの女性から体調を崩されたと連絡を受けました。その後のお身体の具合はいかがでしょうか? 何かお困りのことがあればいつでも連絡を下さい。出来る限り対処させていただきます』「九条さんて相変わらず、真面目な人だな。取りあえず、返信しておかないと」『こんにちは。おかげさまで体調は殆ど良くなりました。今は明日香さんと翔さんに誘われて、モルディブの島めぐりをしています。これから水上ヴィラのレストランで食事をするところです。気に掛けていただいて本当にありがとうござます』メッセージを打ち込んで、送信すると今度はエミからのメッセージを開いた。『アカリ、具合はどう? 楽しんでる? 明日はアカリの為にとびきりのガイドをしてあげるから楽しみにしていてね。返信はしなくて大丈夫よ。都合が悪くなった時には連絡いれてね』「エミさん……」朱莉はギュッとスマホを握りしめて思った。明日香と翔の側にいるのは辛いけど、自分は周りの人々に恵まれていると感じた。それからさらに10分程待っていると、明日香と翔が腕を組みながらこちらへ戻って来る姿が目に入った。2人仲良く腕組みをして歩く姿は正に美男美女の誰が見てもお似合いのカップルそのものである。「お待たせ、朱莉さん」明日香はすっかりご機嫌な様子で朱莉に声をかけてきた。「すまない、待たせたね」翔も言いながらソファに座るが、そこには何の感情も伴ってはいない。「ああ、そうだ。朱莉さん! 素晴らしい話があるのよ
ホテルの中のレストランはビュッフェスタイルで、どれもが絶品の味だった。特に朱莉が気に入ったのは色々な食材を自分でトッピングして食べるヌードルだった。ボイルしたエビやイカ、タコ……それにワンタン。組み合わせ自在で、麺の歯ごたえも朱莉の好みだった。食事をしながらチラリと自分の向かい側に隣同士で座る明日香と翔の様子に目を配る。明日香はまるで新婚の新妻の如く、時折フォークに刺した料理を翔の口に入れて楽しそうに笑っている。そしてそんな明日香を愛おし気に見つめる翔の瞳。(駄目よ、あの人達を意識しちゃ……。私のこの気持ちを2人にだけは絶対に知られちゃいけないのだから)朱莉は自分の存在を消す様に静かに、黙々と食事を口に運んだ。食事終了後、翔が席を外した時に明日香が尋ねてきた。「ねえ、朱莉さん。私と翔は島の散歩に行って来るけど、貴女はどうするの?」「え……? 私ですか?」本当は朱莉もこの素敵な島の散歩をしてみたいと思ったが、そんな事は口に出せるはずもない。いっそ、自分に声をかけないでくれていたら、時間をずらし散歩に行く事が出来たのに。朱莉は一瞬、ギュッと口を結ぶと言った。「私は部屋で休んでいます。それで……お聞きしたい事があるのですが。私、何も着替えとか用意していないのいです。明日香さんは着替え持って来ているのですか?」「ええ、一応持って来てるわ。あ……そうだったわね。ごめんなさい、朱莉さん。突然誘ったから着替えの準備をしていなかったのよね?」「はい……でも1泊だけなら着替えなくても大丈夫です」「あ、大丈夫よ! 私の服を貸してあげるから。予備に持って来ているのよ。それに新品の下着もあるから、貴女にあげるわ。見た所私とサイズ的にそう変わらないように見えるしね」明日香は朱莉の身体をジロジロ見ながら言う。「え? いいのですか? でも迷惑では……」「何言ってるの? それぐらい私にとってはどうってことないわ。そうね……今夜10時に私達のヴィラに服と下着を取りに来てくれるかしら? 鞄に入れて部屋の入り口においておくから」「はい、ありがとうございます」朱莉は深々と頭を下げた。**** 夜の帳が下りて、すっかり辺りが暗くなり、ヴィラがオレンジ色の明かりに包まれる頃。朱莉は自分が宿泊している水上ヴィラを出た。確か明日香と翔が宿泊している部屋は自分の部屋から右
「…っ! おい、翔! その話……本当なのか?」「ああ……」「お前なあ……。確か子供だって生まれたら朱莉さん一人に育てさせるつもりでいたよな? しかも、朱莉さん本人が生んだようにして……。一体明日香ちゃんは何を考えているんだよ!」とうとう我慢できず、琢磨は机を叩いた。「不安なんだって……言ってた……」「え? 不安……?」「自分は本来なら鳴海家にいていいはずの人間じゃないって……。鳴海家には血のつながってる家族がいないから……本当の家族が欲しいって言ってるんだ。だから子供が欲しいって……」琢磨は下唇を噛んだ。(そうか……自覚があったのか……。まずいことを言ってしまったな)その様子に気が付いた翔が声をかけてきた。「どうした? 琢磨。何かあったのか?」「実は……本来、明日香ちゃんは海家において貰っている立場だってことを忘れるんじゃないと、つい口が滑って言ってしまったんだ……」「そうか……まあいい、気にするな。これは俺と明日香の問題だから」「確かにお前と明日香ちゃんの問題ではあるが……子供を産みたいとなるとそれはまた別問題だからな?明日香ちゃんが薬をやめたのは子供が欲しいからなんだな?」「そうだ」頷く翔。「俺は医者じゃないから良く分からないが、あんな精神状態で妊娠生活を送れるのか? とても無理だとは思わないか? 悪いことは言わない。今はまだ考え直してくれ。お前たちの為だけじゃない、俺は朱莉さんのことも考えて言ってるんだ」「朱莉さんの為か……。そうだな、それは当然だな」「いいか。朱莉さんは今高校卒業の資格を取る為に通信教育を受けているんだろう? 少なくとも3年間は勉強を続けないといけない。それなのに、明日香ちゃんの子供が生まれたらどうするんだ? お前たちは朱莉さんに育てさせるつもりなんだろう? それとも朱莉さんを巻き込まずに、明日香ちゃんとお前の2人で生まれてきた子供の子育てをすると言うなら……もう勝手にするがいいさ」「明日香に子供を育てるのは無理だ」「だったら、最初から子供のことは諦めろよ!」再び琢磨は声を荒げたが……ため息をついた。「すまなかった翔。後2時間もすれば大事な商談が始まるって言う時に……。出来るだけ俺も協力するから、今は目先の仕事のことを考えよう」「ああ……そうだな」翔は顔を上げて無理に笑みを作ると書類に目を通し
翔がPCに向かっていると、オフィスのドアが開いて琢磨が部屋へと入って来た。「……戻ったぞ……」琢磨は疲れ切った様子で、ドサリと自分の椅子に座った。「どうした? 随分疲れ切っているように見えるぞ?」声をかける翔。「あ、ああ……。まあな、ちょっと色々あって……今、少し話せるか?」「大丈夫だ。何があったんだ?」「お前と明日香ちゃんの部屋へ行ってきたんだ。お前の私物を少し朱莉さんの部屋へ移動させる為にな。「何だって?」翔は眉をしかめた。「どうしてそんな勝手な事をするんだ……とでも言いたいのか?」「いや、俺のことよりも……明日香の様子はどうだった?」「そりゃあヒステリーを起こして大変だったよ。何だか以前より酷くなっていないか? 精神安定剤飲んでるんだろう?」「いや……実は今は飲んでいないんだ」「なんでだ? 医者からやめていいと言われたのか?」「言われていない」その言葉に琢磨は肩をすくめる。おいおい…。もう一度医者に行くように言えよ。あれじゃあお前だってたまったもんじゃないだろう? 家に帰ったって、あんなヒステリックな明日香ちゃんと一緒だと気が休まらないんじゃないか?」「俺は……これは俺が受けるべき罰だと思ってる」しんみりと答える翔。「はあ? 何言ってるんだよ? それに今まで聞かずにいたけど……お前、明日香ちゃんからDV受けているだろう?」「!」翔の肩がピクリと動く。「やっぱりな……。全く、鳴海グループの御曹司が恋人からDVを受けているなんて話……笑えないからな?」「俺のこと……情けない男だと思っているだろう?」翔は自嘲気味に笑った。「翔……。悪いことは言わない。一度明日香ちゃんを入院させたらどうだ? あれはもう酷いなんてものじゃない」「そんなことをして、世間にもしばれたらどうするんだ!? マスコミにかぎつけられて最悪、俺と明日香の関係までばれたらこの会社はどうなる!?」「都心ではない……どこか地方の療養施設に暫く明日香ちゃんを預けるんだよ! な? 悪いことは言わない。何も何カ月も入院させるわけじゃない。せめて長くても半年……短くても3カ月……。その間に明日香ちゃんは治療に専念する。お前はゆっくり休める。……悪い話じゃないと思うぞ?」「明日香がそんな話、納得すると思うのか?」「ああ、納得なんか絶対にするはずはないだ
朱莉に案内されたのはウォークインクローゼットであった。「どうぞ、見てください」琢磨にワードローブにしまってある服を見せた。スーツが20着ほど吊るされ、収納ケースにはきちんと春物や夏物に仕分けされた服が畳まれてしまってある。下着類も丁寧に畳まれて収納されていた。「凄いですね。そこまできちんと考えられていたなんて」琢磨は感嘆の声を漏らすと同時に、ある事に気付いた。「あの……ご自身の服は購入されていますよね? 今見せていただいた場所は全て副社長用の服しかない様ですね。こちらに置かれている全ての収納ケースを拝見しましたが、奥様のはございませんね? 別の場所におかれているのですか?」「はい。ベッドルームのクローゼットにしまってあります」そこで琢磨は引っ越し準備のことを思い出していた。朱莉がこの部屋に越して来る為に、琢磨は何度もこの部屋を訪れていた。必要な家電や家具を購入し、それらを配置する為に、連日通い詰めていたのだからよく覚えている。(まてよ……。確かあのベッドルームには確かにクローゼットはあるが、大した大きさじゃなかったよな?)琢磨はそのことを思い出し、朱莉に尋ねた。「あの……奥様の衣類は全て、そのクローゼットで収まっていると言うことですか?」「はい。そうですが?」「副社長からはカードを預かっておりますよね? それで自由に買い物をするようにと言われていたと思いますが?」すると朱莉は顔を赤らめる。「確かにそう言われましたが、翔さんのカードをお借りして買い物をするのは何となく気が引けて……それで自分の分は月々の手当から買っていました」琢磨はそれを聞くと胸がズキリと痛んだ。(そこまで彼女に気を遣わせてしまっていたなんて……!)「それは副社長が奥様に使っていただきたいと思い、渡されたカードです。書類上の結婚とは言え、奥様は正式な副社長の妻なのです。なのでどうか遠慮されずにそちらのカードで必要な物は全て購入されてください。そして月々振り込まれるお金は……これは私個人の意見ではありますが、将来の為に貯金されることをお勧めします」「九条さん……」「申し訳ございません、余計なことを話してしまいました。どうやら私が持ってきた服は必要無かったようですね。このまま持ち帰らせていただきます。それともう一つ確認を取らせていただきたいのですが、食器類なども全て
部屋でPCを前に通信教育の勉強をしていた朱莉のスマホに電話がかかってきた。着信相手は琢磨からだったのだ。「え……? 九条さん? すぐに出なくちゃ」朱莉はスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『ご無沙汰しています、九条です。この間は写真の件で無理を言ってしまい、大変申し訳ございませんでした』「いえ、別にそれ位はどうということはありませんから。あ、もしかしてその件でわざわざお電話を?」『いえ、違います。実は大変急な話で申し訳ございませんが、今ご自宅の前におります。もしご都合がよろしければ少々伺ってもよろしいでしょうか? 奥様に大切なお話があります」(え? もう家の前に……? どうしたのかな?)いつも用意周到な彼にしては珍しい事だと朱莉は思った。だが……。「はい、大丈夫です。今玄関を開けますね」玄関へ向かい、念のためにドアアイで確認すると、大きな紙袋を手にした琢磨の姿があった。(え? あの荷物何だろう……?)朱莉は急いでドアを開けた。「こんにちは、お会いするのはお久しぶりですね。突然訪問してしまい、申し訳ございません」琢磨は深々と朱莉に頭を下げた。「い、いえ……。大体は部屋におりますので、どうぞ気になさらないで下さい。それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」「ええ。じつは会長が近々日本に一時帰国されるそうです」「え? 会長って……翔さんの御爺様ですよね?」「はい、そうです。それで一度、副社長に自宅を訪問したいと伝えてきたそうなんです」「! そ、そうですか……」ああ、ついにこの日がやって来てしまったのかと朱莉は思った。いずれは翔の親族が客として訪れるだろうと言うことは覚悟していたが、いざそれが現実化されるとなると、朱莉は不安な気持ちで一杯になった。思わず俯く朱莉に琢磨は謝ってきた。「申し訳ございません」「え?」「いずれ会長がこちらにお越しになるのは分かり切っていたことだったのに……問題を先送りしておりました」「問題……?」「はい。恐らく会長はお2人の新居での生活の様子を知りたいと思っているはずです。しかし実際にはお2人は一緒に住んだことも、それどころか副社長はこのお部屋にすら入ったこともありませんよね?」「は、はい。その通りです……。あの、それは私が翔さんにあまり良く思われていないから……だと思います
――ピンポーン インターホンを押すと、ドアが開けられて不機嫌そうな明日香が顔を覗かせた。「……随分早かったのね。琢磨」明日香は露骨に嫌そうな視線を琢磨に向けるが、それを気にも留めずに琢磨は言った。「ああ、急いでここへ向かったからな。それじゃ中へ入らせて貰うよ」「ちょ、ちょっと……!」明日香の非難する声も、ものともせずに琢磨は部屋に上がり込むと、翔の衣服やらスーツを片っ端からクローゼットから出していく。「な……何するのよ! 琢磨!」明日香は琢磨が翔の背広に手をかけた時、片側の袖を掴んで引っ張りながら抗議した。「翔の服を何処へ持って行くつもりよ!」「それを俺に聞くのか? 明日香ちゃん。翔から聞いたぞ? 昨夜会長から連絡が入ったそうだな? 近々日本に一時的に帰国するそうじゃないか。それで朱莉さんと翔の新婚生活の様子を見たいって言言われたんだろう? 恐らく朱莉さんは翔の日用生活品は用意してるだろうが流石に服までは用意していないはずだ。だからこの部屋から翔の服を朱莉さんの部屋に移動させるのさ」琢磨はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。「な……何ですって……! 彼女の部屋に翔の服をですって? 嫌よ! そんな事させないわ! 翔の服なら彼女が適当に買って用意すればいいでしょう?」「随分無茶な事を言うんだな? 女性が1人だけで男性用の服やら下着をほんの数日で揃えきれると思ってるのか? 何せ、お前達兄妹が着ている服は全てブランド品ばかりだしな?」「ちょっと! 私と翔を兄妹って言わないでよ!」明日香はヒステリックに叫んだ。「何がいけない? 世間的には明日香ちゃんと翔は血の繋がりは無いが、戸籍の上では立派な兄妹だ。会長だってそれを分ってるからお前達の結婚を認めていないんだろう? いいか? 今から俺がやろうとしていることに文句を言ったり、この件で朱莉さんに言いがかりを少しでもつける様なら、俺は全て会長に報告するからな? 2人の結婚が偽装だと言うことも、偽造結婚に関する契約書だって全てな。あれを作ったのはこの俺だ。それらを全て会長に証拠として提出する。そんなことになれば明日香ちゃんも翔も終わりだぞ? きっとそれらが知れたら会長はお前達を許さない。翔に会社を継がせるって話も消えて無くなるかもしれないぞ?」(尤も俺自身だって終わりには違いないだろうけどな……)琢磨は
朱莉から自撮り写真の画像を受け取り、写真を加工編集して貰った翔は写真が出来上がったその日のうちに、祖父にメールに添付して送った。祖父からはモルディブのハネムーンを楽しめたようで良かったなと後日メールが入ってきたので、翔は一安心していたのだが……。****「おはよう……って何だよ! 朝っぱらから辛気臭い顔して……」オフィスに入って来た琢磨は難しい顔つきでデスクに座っている翔を見ると驚いた。それ程翔は髪が乱れ、酷い顔色をしていたのである。「あ、ああ……おはよう、琢磨」翔はぼ~ッとしていたが、琢磨に気付くと、顔を上げた。「おいおい……しっかりしてくれよ。今日は取引先と商談があるんだろう? あんまり聞きたくは無いが、一応聞いておく。……昨夜、明日香ちゃんと何かやりあったな?」琢磨は背広を脱ぐと、椅子に掛けた。「まあな、多少は……。だが、問題はそこじゃないんだ」翔は溜息をついた。「何だよ、だったら早く言え。それで何があった。早いとこ今抱えている問題を解決しなければ、午後の大事な商談に影響が出てしまうだろう?」バンと机を叩く琢磨。「そうだな……言うよ。実は会長が1週間後……日本に一時的に帰国してくるんだ」「え? そうだったのか? 初耳だな。それは昨夜決まったことなのか?」「ああ。……そうだ」「ふ~ん……それで明日香ちゃんが荒れたわけか。明日香ちゃんは子供の頃から会長とは反りが合わないって言ってたものな」「いや。明日香が荒れていたのはそれだけが原因じゃないんだ……」「何だ? まだ何かあるのか?」「会長……祖父が俺と朱莉さんの新婚生活の様子を見たいから……新居に遊びに来ると言ってきたんだよ。ひょっとしたら、あのモルディブでの写真に何か違和感を感じたかもしれない……だからだろうか?」翔は両手を組んで、顎を乗せると考え込んでいる。「だから俺はお前が写真を画像加工に出すとき言ったんだ! 会長は勘のいいお方だ。下手な小細工をしても嘘はバレるぞって。何か怪しいと思われたんじゃないのか? でもな、翔。それはお前の自業自得だからな? 最初から明日香ちゃんが文句を言おうが何しようが、モルディブでちゃんと朱莉さんとの写真を撮っておかなかったお前の責任だ。明日香ちゃんの矢面から朱莉さんを守る為に、波風立てたくないって一度俺に言った事があるが……俺から言わせ
「ちょっと待てよ、翔! そもそも2人でモルディブへ行った証拠を会長に見せる為に行った旅行じゃ無かったのか? 何故お前と朱莉さんのツーショットが無いんだよ!」「明日香が……常に一緒だったから朱莉さんとの2人で映る写真を写す事が出来なかったんだ……」「朱莉さんにはお前と明日香ちゃんのツーショットの写真を何枚も撮らせて? 挙句には2人のキスシーン迄写させたんだろう? お前、一体何やってるんだよ!」琢磨は流石に我慢の限界で声を荒げてしまった。「ああ、そうだ。俺は本当に最低な男だ。明日香の御機嫌取りばかりして彼女を……朱莉さんを傷付けてしまった」「く……! ま、まあ過ぎてしまったことはもうどうしようもないが……。うん? 待てよ。もしかしてお前がさっき見ていたHPってまさか……!?」「ああ。朱莉さんの写真を借りて、そこの会社に画像の加工を依頼しようかと思ってるんだ。最短2日で仕上げてくれるそうなんだが……。それで琢磨から朱莉さんのモルディブで撮影した画像ファイルを送って貰えないか頼めないかと思ってって……琢磨、どうした?」琢磨が肩を震わせている事に気が付いた。「お、お前なあ! ふざけるな! いいかげんにしろよ! 自分が今何をやろうとしているか分かってるのか!? 会長に2人がモルディブ旅行へ行った証拠写真を見せなくてはならないので、朱莉さん。申し訳ありませんが、モルディブで撮影した朱莉さんの写真を拝借出来ないでしょうかって俺にその台詞を言わせる気かよ!」「そのまさかなんだ……」琢磨は怒りで顔が赤くなり、翔の顔色は青ざめている。何とも対照的な2人は暫く視線を交わしていたが……琢磨の方が折れた。「分かったよ……。俺から朱莉さんに頼んでみるが……いいか? 翔。後で必ず何らかの形で朱莉さんに詫びるんだぞ?」「ああ……分かってるよ」「全く、俺もどうかしてると思うよ。お前や明日香ちゃんのような奴と関わって……まるで悪魔の手先にでもなったかのような気分だよ。本当に朱莉さんが気の毒で堪らないよ……」琢磨の言葉に翔は項垂れた。「ああ……だから琢磨。お前には悪いが……朱莉さんに優しくしてあげてくれないか?」「翔、自分で何を言っているのか分かっているのか? 本来優しくするのは俺じゃなくてお前の仕事だろう? それを普通秘書の俺に言うか?」「悪いと思ってるよ。お前にも…
「はあ~……」モルディブ旅行から帰国して5日目、翔はPCに向かいながら大きなため息をついた。「何だよ。そんな幸せが逃げていきそうな大あくびをして。そんなだらしない姿を取引先に見られたらどうするんだよ。この会社は景気が悪いのかと思われるだろう?」同じくデスクで仕事をしていた琢磨が顔を上げ、翔を咎めた。「そんなこと言ったって、今俺は非常にまずい立場に立たされているんだよ」そして再び深い溜息をつく。「仕事で何か困ったことでもあったのか? だったら秘書の俺にまず相談するのが筋だろう? さあ、何だ。もしかして取引先と何かトラブルでもあったのか?」琢磨は翔のデスクに近付くとPCを覗き込む。「うん? 画像加工プリントサービス『フォトグラフ』……何だ、これは?」それは写真を修整、加工してくれるサービス会社のHPであった。「ああ……ちょっと写真を加工してくれるサービス会社を調べていたんだ」翔は頭を抱えながら再びため息をつく。「ふ~ん……。お前ひょっとすると今度は映像加工サービスの業界にも乗り出すつもりなのか?」琢磨の質問に否定する翔。「何言ってるんだ。そんなんじゃない。まあゆくゆくはそっちの業種に手を伸ばすのもありかもしれないが、今は全く関係ない」「じゃあ何の為に調べていたんだよ」すると、途端に翔の顔が曇った。「実は……」「うん?」「会長から……メールが届いたんだ」翔は重そうに口を開く。「メール? どんな内容なんだよ。その表情からすると厄介な案件なのか? ひょっとするとこの間の特許志願が通らなかったとか?」「違う! そんなんじゃないんだ……。個人的なことだよ」「個人的なこと……? お前自身についてか?」「ああ」「そうか、なら問題解決に向けて頑張れよ」琢磨が背を向けてデスクに引き返そうとするのを翔が引き留めた。「琢磨! お前に頼みがあるんだ……聞いてくれるか?」「はあ~。ったく……またかよ。お前の頼みはいつもろくな頼みじゃ無いんだからな……」「そこを何とか頼む! 朱莉さんについてのことなんだ……」「朱莉さんについてのこと?」「以前言ってくれただろう? 朱莉さんを紹介したのは自分にも責任があるから協力するって」「おまえなあ……俺は確かに責任はあると言ったが、協力するとまでは言ってないぞ? 勝手に話の内容を変えるなよ」「駄
「昔ね……私には日本にいた時恋人がいたのよ。彼は海がすごく好きな人でサーフィンが得意な人だったの。そしていつかモルディブでサーフィンをしたいってよく言ってたっけ……」エミはいつしか遠い目をしながら星空を眺めている。「ある日、2人でサーフィンに海に出たんだけど、波がすごく高かったのよね。私はまだサーフィンが得意じゃ無くて、波に乗るのに失敗して……」エミは瞳を閉じた。「彼は必死になって溺れた私を助けてくれたんだけど……私を助けた為に力尽きちゃったのかな……。気付いたら彼の姿が消えていたのよ」「!!」朱莉は思わずエミの顔を見た。しかし、そこには何の感情も見せずに淡々とした表情のエミがいた。「彼は結局3日経っても見つからなくて、遺体が無いままお葬式をあげる事になってしまったの。だけど、私はどうしても彼が死んでしまったなんて信じられなくて……ひょっとすると、モルディブにサーフィンをしに来てるんじゃないかなって馬鹿な考え迄持ってしまったのよ」エミは俯いた。「彼はよく言ってたの。いつか南十字星が見える場所で2人で一緒に見つけようって。彼はね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の小説が好きだったのよ。それで、私もその小説を手にして、サザンクロスの話が目に止まったの」「エミさん……」朱莉も銀河鉄道の夜の話はよく知っていた。主人公ジョバンニと彼の親友カムパネルラが銀河鉄道に乗って旅をする話……。(物語の終盤で、銀河鉄道に乗っていた乗客が天上と呼ばれるサザンクロスの駅で降りてしまうんだっけ……。そして結局、カムパネルラは現実世界で友人を助ける為に川に入って、溺れて死んでしまった……)「彼が行きたがっていたこの島で、サザンクロスが見えるこのモルディブに来れば……彼に会える気がして私は1人でこの島へやって来たの。でも本当の事を言えば死に場所を求めていたのかもね」「!」朱莉はあまりにもショッキングな話に言葉を無くしてしまった。「だけど、そんなボロボロになってしまっていた私を救ってくれたのが今の主人って訳よ」突然エミはそれまでのしんみりした様子から、明るい笑顔になる。「あのね、アカリ。私、少しだけ、クジョウタクマって人と電話で話したのよ。だから貴女の複雑な事情も少し知ってる。その上で話をさせて貰うけど。アカリ、貴女……本気で偽装結婚の相手のこと、好きなんでしょう?